多彩なキャリアの仲間たち
大成 真紀
運営2部 執行役員
事業所がやりたいことを、可能な限り自由に出来る仕組みを作っていきたい
トップランナーとして福祉を変えていきたいという思いは
入社当時から変わらない
現在所属している部署とお仕事の紹介をお願いします。
現在、運営2部というエリアを統括しています。
埼玉県と東京都の一部、静岡県にある事業所です。開設35周年を迎える歴史ある事業所、田舎暮らしを満喫出来る事業所などバラエティーに富んだ事業所が所属しています。
私の役割は、エリアの各事業所長と連携を取りながら、問題があれば対策を考え事業所の壁を越えて解決にあたることです。コロナ禍の影響で欠勤者が大量に発生した時は、事業所間で応援を送り合い乗り越えました。一つのチームとして動くことを大切にしております。
介護や福祉にもともと興味はありましたか。
はい、看護師と教師をしていた2人の叔母が大きく影響しています。小児病棟の看護師だった叔母からは、障害を持って産まれた子供たちや、身寄りのない子供たちの話を幼いころから聞かされており理不尽なことを何とかしたいと、自然な流れで福祉という選択肢が自分の中に生まれていました。教師の叔母は生徒にとても慕われていて、その姿を見ていて人と関わる仕事は面白そうだと思っていました。
その思いは変わらずに、迷いなく日本福祉大学へ進学し卒業しました。
長谷工シニアウェルデザインへ入社を決めたきっかけを教えてください。
当時は福祉を勉強しても社会科の先生か社会福祉協議会か特養しか選択肢がなく、有料老人ホームはまだレアな時代でした。その為就職できる企業はごく少数で、どうしようかと思っていた時に、当社の前身となる会社の社長が、ゼミの先生と一緒に地域の調査をやっていて、実習に駆り出されました。
地域コミュニティとのつながりを大切にする理念や、コーポラティブハウスという住まいの在り方に共感し、この立ち上げに参加しながらとてもユニークだなと興味を引かれました。
今後はこういった事業の在り方が伸びていくだろうなと、今後の介護に必要な姿が見えてきたと同時に、トップランナーとして走って、他社がやっていないことをやってみたいと、当社を選びました。無謀にも日本の福祉を変えていきたいという思いがありました。
これまでのキャリアについてお聞かせください。
- 1年目~ 新卒で入社した後、現在のブランシエール新町にケアスタッフとして配属されました。まだ介護保険法も制定されておらず、介護という仕事がこれから発展していく時代でした。
- 2年目~ 本社へ異動となり、事業所の新規開設に携わる部署に配属され、ブランシエール所沢の新規開設などに関わりました。
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16年目~
営業としてブランシエール神宮南井田に配属され、最終的に事業所長に任命されました。
ここで事業所長としての行動や使命、自分自身が仕事を楽しむ大切さを学びました。 - 20年目~ 本社の運営総務部に異動となりました。
- 21年目~ ブランシエール日暮里で事業所長を務めました。地域コミュニティと協力し合える関係づくりに尽力しました。
- 22年目~ ブランシエールリボンシティ川口で事業所長を務めました。
- 25年目~ ブランシエール川越南 七彩の街で事業所長を務めました。
- 27年目~ ブランシエール日暮里へ戻り、再び事業所長を務めました。
- 30年目~ 本社にて運営部長を2年間、総務部長を1年間務めた後に、運営1部長を経て現在の運営2部に配属されました。
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- 新卒でブランシエール新町に配属
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- 本社へ異動
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- 営業としてブランシエール神宮南井田に配属
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- 本社の運営総務部に異動
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- ブランシエール日暮里で事業所長
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- ブランシエールリボンシティ川口で事業所長
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- ブランシエール川越南 七彩の街で事業所長
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- ブランシエール日暮里で、再び事業所長
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- 本社に配属
お互いに支え合い、「ありがとう」と言い合える関係性が、究極のケアなのではないかと思う
これまでで一番大変だったお仕事について、どういった点で苦労をされましたか。それをどのように克服し乗り越え、現在に活かしていますか。
私にとって転機となったのは、ブランシエール神宮南井田で初めて事業所長を務めた時です。私は営業職としてその施設に関わっており、元々事業所長になる予定はありませんでしたが、開設前から携わっていた経緯から、白羽の矢が立ちました。しかし、スタッフが次々と辞めてしまい大変厳しい状況に陥ってしまいました。今振り返ると、初めての事業所長という役職に戸惑い、私が保身的な態度を取ってしまっていたからだと思っています。このままでは駄目だと、リスクを考えるのではなく、誰に喜んでいただく為にやるのか、どうしたら実現できるのか、そもそも自分は楽しめているのか、など、俯瞰で考える様に心を切り替え、1人でもこの事業所を守ると腹をくくりました。丁度その覚悟を決めたタイミングで、業務委託先の責任者の方から「絶対にあなたの味方だから、一緒に頑張ろうね」というお電話をいただいたことが今でも忘れられません。私の姿を見て心配してくださったのかと思います。不思議なもので、そこから潮目が変わり、スタッフも定着しご入居者も増えていきました。自分が変われば周りも変わると学んだ経験です。
最も嬉しかったエピソードを教えてください。
まず思いついたのはブランシエール日暮里で事業所長をやっていた頃の話です。
赴任してからすぐに町内会長の元にご挨拶へ伺い、何かお困りごとがないか聞きました。すると人手が足りないので防火防犯部隊の委員会に入ってくれないかと依頼されました。もちろん二つ返事で引き受け、事業所のスタッフと共に防災訓練や、夜回り活動に参加し、お祭りなど町内会のイベントには準備段階から積極的に関わりました。その様子を見ていてくださっていた近隣の消防署長が声をかけてくださり、夜間に高齢者施設で火災が起きた場合、地域の方が応援に駆け付けるという協定を新しく結ぶ事が出来ました。事業所での防災訓練にはその地域の方も積極的に参加してくださっていました。
困ったときはお互い様という関係性を築けたことが、非常に嬉しかったです。当時は事業所まで歩いている間に住民の方が声をかけてくださり、地域に見守られている、溶け込んで働けていると実感できたことが幸せでした。
じつは日暮里を離れた今でも町内会の名誉会員になっていて、お祭りにも参加させていただいているんです。
また、入社して間もない頃、余裕なくバタバタ動いてしまい、ご入居者の湯呑みを割ってしまったことがあります。落ち込んでいる私に「動かない人は失敗しない。この失敗は必ずあなたのためになる。だから良いんだよ」と声を掛けていただきました。この時に感じた、失敗を恐れずに行動し続けることの大切さは、今でも接し方に活きています。
最後に、もう一つ忘れられない言葉があります。脳梗塞を患い片身麻痺のご入居者がいらっしゃいました。その方から「私の身体を使って、あなたにケアを学んで欲しい。この身体を使って役に立てることがあるなら、私も嬉しい」と仰っていただいたこと。ケアスタッフとご入居者がお互いに支え合い、「ありがとう」と言える関係性が、究極のケアなのではないかと考えるきっかけとなり、今でも心に残っています。
当社での経験を通して、人間力を身に付けて欲しい
会社全体として今後のビジョンについて教えてください。
現在は全社的に、数値目標をいかに達成していくかに専念しています。
ルールの統一や業務の効率化の効果によって、基準をクリアし土台を固め、目標数値を達成することが第一のゴールです。
その次のステップとして、事業所ごとの個性を打ち出していきたいと思っています。各事業所が本当にやりたいことを、可能な限り自由に出来る仕組みを準備していきたいと思っております。そういう場所であってほしいですし、その結果お客様により選んでいただける事業所になるのではないかと思います。まだ具体的な方法は決まっておりませんが、みんなで考えて創り上げていきます。
学生の皆さんへメッセージをお願いします。
皆さんがキャリアを積んでいく頃には、介護業界も今と全く違う状況になっていることでしょう。
人の生活に関わって支援していく仕事は、絶対に残る仕事だと思っています。様々な新しい技術が生まれていっても、人にしか出来ないことが出来る人は生き残ります。人の気持ちに共感して一緒に幸せになれるという、いわば人間力はどんな局面でも役に立ちます。当社での経験を通し、どこでもどんな職種でも通用する人材になることを願っています。皆さんの未来を応援しています。